Adrenaline Addiction

東京湾のLTアジから小笠原の遠征ジギングまで。

なぜ、負けるのに競馬に熱中しているのか

大学に入ってから、金のかかる趣味をまた一つ覚えてしまった。

 

競馬である。

 

 高校時代、なぜか野球部のやつらが競馬漫画にハマっており(たぶん、あれは「優駿の門」だったと思う)、友人から馬の美しさについて熱弁された覚えがある。しかし、当時全くギャンブル自体に興味がなかった私はそれを歯牙にもかけず、毎日、図書館の一角でコソコソとブラウザを立ち上げ、某お船ソシャゲの遠征を回していた。

 

 

 そんな私に転機が訪れたのは、大学入学後サークルの先輩から有馬記念観戦に誘われた2016年12月の事である。

 

 約2年半前、競馬界の中心には前月のJCで圧勝し、すでにG1、3勝を飾っていた4歳馬キタサンブラックと2億4千万円で取引され、クラシック戦線で活躍した菊花賞サトノダイヤモンドの2頭が存在しており、有馬記念ではその両者が直接対決。3歳馬の勢いか、古馬の意地か、といった頂上決戦の様相を呈していた。

 

 そんなこともつゆ知らず、大学生の最初の年のクリスマス、不幸にも何も予定が入っていなかった私は、嬌声を上げる女の子とのキラキラなクリスマスではなく、奇声と罵声を叫ぶオヤジたちとのギラギラなクリスマスに身を投じることになったのである。

 

 

 しかし、結果から言えば私はビギナーズラックといったものを掴むこともなく、順当に、きわめて当然の事のように惨敗した。

 

 人ごみに揉まれながら初めてマークシートを塗り、先輩に頼んでお金を賭けてきてもらったゴールドアクター(3番人気)はラスト2ハロンで伸び切れず、そして掛け金は有馬記念の総売上額、449億257万2000円の中に吸い込まれ、そのまま消えた。

 

 

 そして帰り道、1500円ほどを失った私は東中山駅まで歩きながら思った。「もう競馬をすることはないだろう」と。

 

 

 

 

 

 

 ただ、翌年もやっちゃったんだな。有馬。

 

 何が私に働きかけたのか、何が私を競馬に駆り立てたのかはわからない。

 

 しかし、めでたく成人し、合法的に競馬が出来るようになった私は、なぜか12月24日、スマートフォンで即PATと呼ばれるインターネット投票システムのアカウントを使い、2回目の有馬記念に挑戦し、少額の勝ちをおさめた。

 

 でも、ここでも大してハマらなかった。

 このときはただ、成人らしいことをしたかったのだと思う。

 

 

 

 しかし、ついに毒牙に掛かるときがくる。2018年の2月頭、東京新聞杯(G3)だ。

派遣のバイトで浦和に飛ばされた私は、浦和競馬場の場外でまたしても先輩と共に競馬に臨み、初めて勝ちらしい勝ちをおさめた。馬連とワイド、200円がリスグラシュー武豊のおかげで3500円になって、ついに覚醒してしまった。今考えると、たったの馬連2500円とワイド1000円である。しかし、3500円が私を「沼」へと引きずり込んだ。

 そして、その後も冬から春にかけての重賞戦線でちょくちょく勝ち、脳汁を垂れ流し続けた結果、今では敗北を重ね、当たりもしない馬券を大量に買って奇声を上げて喜ぶような人間になってしまった。

 

 それではなぜ、負けるのがわかってるのに競馬をするのか。

 

 

 ここからは外的要因と内的要因の2つに分けて考察をしてみよう。

 

 まず、外的要因の1つ目に上げられるのは、私の住む場所があまりにも競馬をすることに関して恵まれているという事だ。

 

 私が持つ、池袋への定期券の区間には地方自治体によって地方競馬が開催される船橋競馬場、そしてJRAの主催により、中央競馬が開催される中山競馬場の2つの競馬場の最寄り駅が含まれている。これは恐るべきことだ。地方競馬、特に船橋競馬が所属する南関東地方競馬は、4つの地方競馬が持ち回りで開催するため、1月に5日間は確実に船橋でも開催される。しかも、船橋に限って1年中ナイター開催だ。授業の帰りに十分寄れてしまう。何といっても、5限を受講している日でさえ、メインレースが観戦できてしまうのである。そして、中央競馬に関しても、東中山から15分ほど歩けば、日本に10か所しかない中央競馬場皐月賞スプリンターズS有馬記念ホープフルSの4つのG1が開催される魅力的な中山競馬場だ。(相性は悪いが)

 

 Door to Doorならぬ、Door to Raceまで1時間かからないのだ。

 この環境は、私と競馬を近づける1つのファクターとなっていることは間違いない。

大学よりもよっぽど近いし、交通費無料だもん。そりゃ行くわ。

 

 次に、2つ目の外的要因は周りに競馬をしている人間が数多く存在していたことだ。なぜか私の所属するサークルやその周辺には競馬を嗜むものが多い。歴史を研究するサークルじゃねぇのか。〇〇研究会は。

 

これが彼らが内に秘める破滅願望と成功願望の表れなのかは知る由もないが、私の競馬に対する、ギャンブルに対する罪悪感を大いに軽減させたことは間違いない。しかも、私よりも周りはいつも負けてるため、負けが込んでも彼らと比較することで敗北感が低減する、非常にギャンブラーにはありがたい環境だ。

 そして、彼らの持つ 「働かずに稼げる競馬はかっこいい」という価値観も大いにギャンブルの熱中と相関関係があるように思う。

 

 

もうこのサークルは競馬研究会でいいんじゃないか??

 

 

 次に、内的要因についても挙げてみよう。

 1つは、私が「ドラマ性」に非常に弱い性分であることだ。

 

 ミッキーロケットの宝塚記念然り、メイセイオペラフェブラリーS然り、競馬にはあまりにも多くのドラマがある。勝利と挫折、成功と死が一つの競馬というエンターテイメントの中に内包されている。(ばんえい競馬なんか能力試験に落ちたらその場で食肉のセリにかけられてしまうのだから強烈だ。)

 まず、生き物に調子があるのは当たり前だし、ニガテがあるのは当たり前だから、絶対値的な能力の高い馬が絶対に勝つかというとそうでもないし、条件が変わるといきなり勝ちを重ねる馬もいる。

 

 そして、そうしたドラマを演出するサラブレッド自体が、言ってしまえば人間のエゴによって作り出された非常に歪な存在である。彼らは高い競争能力を持つにもかかわらず、「ガラスの脚」とも呼ばれる貧弱な脚部を持ち、デリケートな生き物である。

具体的にはどういうことかというと、彼らはレース中に転んだだけで脱臼、骨折して結構簡単に死ぬ。(実際には予後不良の形で安楽死させられるのだが)

 

 また、馬の能力レベルが地方競馬中央競馬の間で大きく違うため、両者の間には大きな格差が存在し、一種の階層が存在している。

 

 加えて、競馬は馬だけで行われるのではなく、馬の上に人間が、騎手という形で乗っかっている。彼らにももちろん「上手い」「下手」があり、能力差があることはもちろん、騎手のバックグラウンドなんかも知識を得るうちに知ってくるわけだから、これもこれでドラマになってしまう。

 

 ということは予後不良発生し放題(死に放題)だし名勝負起き放題、ドラマ作り放題なのである。

そんなドラマ無限製造機的エンターテイメントを、典型的な判官びいき、スポコン、逆張りが大好きで「もののあはれ」を「エモ」に変換して生きるジャパニーズが嫌いにならないわけはなく、典型的なジャップマインドを持つ私が好きにならないわけがない。

 

 正直、ドラマ性があれば負けても勝ってもいいんだよね。

 

 福永祐一がダービー勝ったら馬券外れてもうれしかったじゃん。

 

 

 そして2つ目は、私が競馬と親和性の高い性質を持っていた釣りを、ライフワークとしていた点である。

 

 釣りと競馬、一見するとかけ離れている2つの事物であるが、よく考えると、両者はかなり多くの部分を共通点として持っている。

 

 ・自然(動物)相手であり、結果に確実性がない(魚≒馬)

 ・リターンが目に見えるものであり、市場的価値を持つ(釣果≒金銭)

 ・基本的には取り組むにあたり、知識を必要とする 

 ・努力や投資が報酬の形で還元されない場合が存在する

                            など

 

 これらの共通点を見ると、驚くほど釣りと競馬はその本質的部分を共有している。

 特に、作戦をいくら考えて練り上げてもカスリもしないときがあれば、適当な考えにより大きな結果を得るときもある。この不確実性は、両者のファンがそれぞれに「没頭」する大きな要因となっていることが考えられる。

 つまり、何が言いたいのかって「熱中」や「没頭」を引き起こすファクターが、ほとんど同じだってことが言いたいのである。

 

 そして、10数年にわたって釣りをしていた私、不確実性にすでに魅了されていた私が競馬に手を出した時点で、もうすでにこうなることは必然であったのだろう。

 

 

以上ここまで、なぜ競馬にハマってしまったのかについて自分なりに考察を加えてみた。

 

これからも、たぶん私は競馬をやって、負けていくのだろう。でも、「まぁいいか」と考えている自分もいる。

だだっ広いところで叫ぶのはなんだかんだ楽しいのだ。

 

 

最後に余談であるが、私の高祖父は博打により、担保としていた土地を近所の住民に没収されたため、いまでも祖父母宅の家の前の空き地は、近所の住民に1年単位で金銭を払って借用している。果たして、遺伝がギャンブルの熱中度合いに関係するのかは不明だが、とりあえず自分はそういう事態に陥らないよう、努力して(勝って)いきたい。