「ただならぬ美女」に思いを馳せる。
「吉岡里帆が表紙」という理由で一部の人々からハチャメチャに叩かれたりバカにされたりしている雑誌、『東京カレンダー』を購った。
率直な感想は以下のツイートがすべてだ。
東京カレンダー、活性炭で強力脱臭してオー・デ・コロンで超絶着香した「東京いい店・やれる店」だろ。
— 紺屋 (@koya_suko9) 2023年9月12日
これホイチョイ・プロダクションズの残党が作ってます???
東京カレンダー、普通に読んでて『面白い』んだけどAzabu Race Courseの連載だけが……不快です……。
— 紺屋 (@koya_suko9) 2023年9月12日
端的に言えば、結構面白かったのだ。「上流階級になり切れないミドル層が一生懸命スノッブぶってアッパークラスしてます~、でもオチンチンは勃ってます。」みたいな感じで。
(これは貶しているようだがかなり褒めている。スノッブぶってアッパークラスの世界にお邪魔してみるのは実際超楽しいし、それをしないと日々の生活に張り合いがないので、背伸びは生活を豊かにする大事な要素だ。)
唯一の例外として私が嫌いな、首都圏と地方の分断を煽るデマゴーグの短期集中連載だけは読まずにいるが。
さて、本誌中で非常に面白かった表現がある。
「連日ディナーの時間になると、ただならぬ美女が店に吸い込まれていく」というキャプション。
「ただならぬ美女」って何だろうか。なにやら素敵な表現だ。
美女は美女でも「ただならぬ」美女なのだ。
飛び抜けている、意味での「ただならぬ」のか、
「ただならぬ」関係にある美女なのか、
それとも存在そのものとしてファム・ファタル的で「ただならぬ」女なのか。
「ただならぬ」の可能性は無限大だ。
しかも、どういう意味でも「ただならぬ」という形容句は美女を怪しく、魅惑的に修飾する。完璧だ。『東カレ』的表現はこれだ!という趣さえある。
類義語にある「尋常ではない」や「半端ではない」ではどうか。そこに『東カレ』の香りはするだろうか。
「尋常ではない美女」「半端ではない美女」。少し薄っぺらすぎ、表現に奥行きがないように感じはしまいか。特に外見にのみフォーカスが当たっているような感じがして、存在や関係としてのunnormalさはどこか遠い。端的に言えばどことなくガキっぽさを感じさせてしっくりこない。学食や空き教室でデカい声でサークルの女子の品評会を開催する大学生のようだ。
やっぱり「ただならぬ美女」は最適解のように思える。
ここまでダラダラと回りくどいことを書いてきたが、結局のところ私は「ただならぬ美女」というフレーズに『東京カレンダー』の矜持のようなものを目撃している思いなのだ。
「バリバリ稼いでここに載ってるメシ食いに来いよ!!!」
「奥行きある女性とヨロシクやれ!」
冒頭で私はTweetを載せたと思う。これは活性炭で強力脱臭してオー・デ・コロンで超絶着香した「東京いい店・やれる店」だと。
『東カレ』は日本が最もギラギラしていた時代のスピリットが形を変えたもので、現代の人間に「もっとギラギラしろ!!!」とハッパを掛けている……。そんな無形のメッセージを彼女無し、地方勤務、低所得の私はヒシヒシと感じた次第である。
(その価値観がある種「有害」になりうるものであることは一旦置いておくが)
なお、ここまでお読みいただいた方はご賢察頂いていると思うので白状するが、この「ただならぬ美女ショック」以降、私は「ただならぬ」という言葉に完全にやられてしまっている。
仕事をしていても、運転をしていても、飯を食っていても、「ただならぬ女」、ひいては「ただならぬ」という言葉そのものに思いを馳せている。
おそらく私は今後1ヶ月くらい「ただならぬ」という言葉の虜になるのだろう。
是非、私がSNSや面着の場でこの言葉を連呼していたとしたら、是非皆さんは感じ取ってほしい。ただならぬ美女と知り合うことも、自分がただならぬ男になることも叶わない人間の悲哀を。
あ、でも、今月の東京カレンダーの表紙の吉岡里帆は「ただならぬ」美しさだと思う。
私が唯一言える、本当の意味でただならないものはそれくらい。
東京カレンダーの表紙の吉岡里帆が『異次元』すぎてロケットペンダント買ってこの表紙縮小印刷して入れようかと真剣に悩んでた午前中。
— 紺屋 (@koya_suko9) 2023年8月23日